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「ぼくは初音ミクと離婚した」 鮎川ぱて

【profile】 ボカロPであり、音楽評論家。2016年より東京大学教養学部非常勤講師として「ボーカロイド音楽論」を開講。同授業を東京藝術大学の音楽環境創造科でも行う。著書に『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』がある

1. ぼくは初音ミクと離婚した

 もうだいぶ昔のことだが、ぼくは初音ミクと離婚した。

 これはあくまで、ものの表現に過ぎないし(そもそも現行の婚姻制度を積極支持はしていない)、自分なりのリスペクトの表現だが、ぼくがボカロP兼音楽評論家として活動を始めてしばらくしたころから意識していたことだった。ごくシンプルに言い換えるなら、ぼくは10年来「初音ミクと冷静な距離を取る」ことを意識してきているということだが、この表現には典拠がある。

 1980年代に活躍したユーリズミックス(Eurythmics)というイギリスの2人組ユニットがあった。メンバーは、男女のジェンダー・イメージを撹乱(かくらん)する1980年代のクィア・シンボルの一人でもあったボーカルのアニー・レノックスと、ソングライターのデイヴ・スチュワート。二人はデビュー前の前身バンドにおいては恋仲だったが(狭義の婚姻関係であったかは定かではない)、ユーリズミックスとしてのデビューが決まったときに“男女の関係を解消”した。そうしてユーリズミックスは、1983年のシングル「スウィート・ドリームス (アー・メイド・オブ・ディス)」(Sweet Dreams (Are Made of This))で全米1位を記録する。

 ぼくはこのエピソードを美しいと思う。

 それは、二人が真に音楽だけを追求する関係になるのだというプロとしての覚悟の表現だったかもしれないし、たくさんのリスナーの前に立つアニーを特権的に拘束しうる者はいないのだ、少なくともデイヴが「アニーはぼくだけの天使」などと言うことはありえないのだ、とアニーのイメージを開放する宣言でもあったかもしれない。二人には所有関係も主従関係もない。

 果たして、「初音ミクはぼくだけの天使」ではない。

 曲を書くときも、論じようとするときにも、ミクと自分の関係に特別なものはない。所有関係、主従関係がないのはもちろん、見上げる羨望の眼差しもない(だから「ミクさん」という呼称を使うこともほぼない)。

 “自分はずっとミクについて考えてきたのだ、だからほかの人よりもミクを理解しているのだ”、などと近さを幻視してはいけない。そう思い上がってしまわないよう自戒するためにも“離婚”というキーワードはちょうど良いように思われた。(繰り返すが、あくまでものの表現であって、便宜的に擬人化して言ってはいるものの、そもそもミクに人格的表象をあまり見出していない。そのように無関心であらねばとは思っている)

 そうやって「my 初音ミク」でも「our 初音ミク」でもなく、「the 初音ミク」について考え続けてきて、ずいぶん経った。

 前後したが自己紹介をすると、筆者は2011年からボカロPとして活動を開始し、2016年からは東京大学で、2023年からは東京藝術大学で「ボーカロイド音楽論」という講義を開講している。同講義を書籍化した『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』という著書を2022年に上梓した。

2. 初音ミクを開放せよ “電子の”? “歌姫”?

 “初音ミクとはなにか”という問いは、この16年間繰り返されてきた。ミクを語る表現や形容は、16年の間にたくさん試みられてきている。その中でも、定番で何度も繰り返される表現がある。

 例えば、“電子の歌姫がそれだ。一面にはコンピュータのソフトであるから、「電子の」という形容詞が不当であるとは言わない。けれども、ミクをとくに“電子音楽(エレクトロ・ミュージック)の担い手”のように想像してしまうことは、少なくとも2023年にはズレが生じるだろう。

 16年来のボカロカルチャーを見渡すなら、音楽ジャンル的には“ロック”が大きな割合を示すことが分かる。中でも、wowakaが2009年ごろに独自に”発明”した、早口でハイテンポの“高速ボカロック”というスタイルは、その後のシーンの中で瞬く間に伝播していった。

 ただし、初音ミクを“ロックの担い手”へと開いていったのは、wowakaだけではない。

 本稿では起源を同定するようなことはしないが、wowakaの以前にも以後にも、たくさんのボカロPたちの創造力によって、初音ミクそしてボカロの音楽は、電子音楽から“ロックへと広く開放されていった。

 そう、初音ミクの歴史は、開放の歴史だ。

 ここで、ハチによる「砂の惑星」が思い出される。2017年=ミク10周年のタイミングで、『初音ミク「マジカルミライ」』テーマソングとして発表された楽曲だ。そこにはたくさんの呼びかけが込められていた。

 <応答せよ早急に>。

 たくさんの作家たちが応答した。ナユタン星人「リバースユニバース」、夏代孝明「ジャガーノート」、みきとP「ロキ」、syudou「ジャックポットサッドガール」、などなど。今後も応答は続くだろう。なぜなら同曲の持つ解釈可能性は、未だ汲み尽くされることがないからだ。

 ボカロシーンを“もう草も生えなくなってしまった荒廃した砂漠”と表現するという決定的な挑発。その是非については一旦さておき、本稿が注目したいのはMVの中の“二人のミク”のイメージだ。

 一人は、従者を従え砂漠を毅然として邁進するミク。媚態のない表情。格好良い。しゃがみ込むシーンのミクを、ラッパーのあっこゴリラは「コンビニの前にたむろしてるヤンキー」と形容した。このミクは、いわゆる“女性らしさ”の一切から開放されている。

 もう一人のミクは、(同じMV中に映っていて、前者と明白に対置されるゆえに)いかにも“ポップでキュートなバーチャルシンガー”をそのまま表象したかのような、ジェンダー化されたミクである。ボカロカルチャー初期にも、2017年時点にも、この2023年時点にも、一定の層に想像されるところの“典型的な初音ミク”である。

 後者のミクの方が“在りし日(過去)のミク”を示している、という解釈はたしかに順当なものだ。けれども、二人のミクに、時間的前後順はないという解釈も可能ではないだろうか。なぜなら、在りし日の姿と言うには、”いかにも”過ぎて、どこか虚飾めいて見えるからだ。ぼくには、この作品がそのミクを“戻るべき姿”として描いているようにはどうしても思えない。

 人がミクにどんな華やかさや流行り廃りを幻視していようとも、実際のミクは最初から、砂漠をただ歩くように邁進してきただけだった。人がミクに見出す女性ジェンダーや“歌姫”のイメージは幻想で、フラットなミクは、最初からこのようだった。つまり、“二人のミク”とは、“幻視されるミク”と“そのままのミク”という対比ではないだろうか。

 いかにも男性的なイメージをまとっているわけでもなく(スカジャンもヤンキー座りも特定のジェンダーに独占されるものではない)、男女両者のイメージを撹乱(かくらん)するというより、その性別二元論などには一切興味なさそうなミク。そもそも、初音ミクの公式設定では、性別は明言されていない。「砂の惑星」は、ミクを特定のジェンダーから、“歌姫”のイメージから開放した。本来そうであった通りに。

 「砂の惑星」への最新のアンサーの一つであり、その”開放”を引き継ぐのが、『初音ミク「マジカルミライ」』のテーマソングとして書き下ろされたAyase「HERO」ではないかと考える。

 ここはすでに砂の惑星ではありえず、<愛の惑星>であるーーなど、ほぼ明示的に「砂の惑星」に応答している歌詞をはじめ、「HERO」はこれからたくさんの読解が世に出てくることが予想される深い射程を持った楽曲だ。その上で、本稿が注目したいのは、本曲が「HERO」というタイトルであることだ。それは「HEROINE」ではありえないのだ。

3. 23年流の対称性の描き方 「君」と「僕」 「女性」と「男性」

 「HERO」は、「砂の惑星」に加えてもう1曲、ボカロシーンにおいて重要な意義を持つある楽曲を引き受けようとしている。それは、「砂の惑星」と同じく2017年に発表された、wowakaが書いた最後のボカロ曲「アンノウン・マザーグース」だ。

 詳述する紙幅はないが、wowakaの血脈は、2023年夏の『VOCALOID Collection』(通称ボカコレ)の1位に輝いた稲葉曇や同7位だった椎乃味醂をはじめ、名前を挙げきれないたくさんのボカロPたちに引き継がれている。「HERO」を聴いて、Ayaseもまた、確実にその一人なのだと筆者は確信した。

 というのも、「HERO」を聴けばほぼ誰もが気付く通り、同曲には「君」と「僕」ーーすなわちミクと自分を交換可能なものとして読めるというギミックが用いられているからだ。これこそは、「アンノウン・マザーグース」で用いられた表現なのである。

 あなたは私を救ったし、私はあなたを救った(<救われてばかりじゃいられない>)。あなたは私のヒーローで、私はあなたのヒーロー(<where is the HERO! / You’re the HERO!>)。そのような対称性を描くことで、ボカロと、ボカロシーンが成してきたこの16年間の表現世界の広がりを総括している。

 そして、ともに誰かのヒーローである二人は、映像中では、女性のキャラクターで表象されている。歌詞中で<where is the HERO!>と言って、その人(君でも僕でもある)は確かに待っている。けれども、では「ヒロイン」ーー伝統的な通念においては王子様の到来をただ待つところのヒロインであるかというとそうではない。なぜならその人は待たれてもいるから。主従関係のない対称性を描くことで、ここでは誰もが“ただ受動的”ではない。それと表裏一体に、誰もが“ヒーロー”なのだ。

 このことを、映像では女性たちで描くことによって(女性=ヒーロー)、男女のジェンダーの非対称性を完全にキャンセルしているのが「HERO」なのだ。

 そうしてミクは、さらなる開放に到達した。

4. ミクが常に既にいる現在から、過去を救うこと

 「HERO」は、初音ミクを「the HERO」と呼ぶ。

 歌詞中で<僕にとってのヒーロー>だと、まさに言っているのだから、繰り返される呼び声は「my HERO」でもよかったはずだ。「my」と書いたとしても、必ずしも所有や独占を意味するとは限らない。歌詞の通り“僕にとっての”、という意味に留まるのみだっただろう。それでも、Ayaseは「my」とは書かなかったのだ。つまり、ここでAyaseは「my」と書くことを積極的に避けたということだと考えられないだろうか。それは<今だパッパパッと飛び出>さないのだと。

 積極的に所有格「my」を避けたのだとしたら、それは、所有や独占の意味を積極的に否定したということになる。まるでデイヴ・スチュワートが離婚によって、アニー・レノックスの所有と独占を否定したように。

 しかし時は2023年。新しい世代にとって、初音ミクはすでに問いではないのかもしれない。物心が付いたときから、ミクは常に既にそこにいた。彼/彼女らにとっては、「my」でも「our」でもなく、単にそこにあるーーその意味でも「the 初音ミク」であるだろう。だから彼/彼女らに目線を合わせる「HERO」は「the」と言っているのかもしれない。

 そう考えると、この曲は新世代に目線を合わせながら、かつてあった歴史的呪縛を紐解いている楽曲であるように感じられてくる。それは「昔はよかった」という回顧ではありえない。果たして、MV中の典型的なミクは、タイムカプセルの中から(過去の中から)救い出されている。この曲「HERO」は現在ミクは自由なのだと言うにとどまらず、過去のミクでさえも、現在に向かって開放しようとしているのだ。

 レトロニムという言葉がある。例えば“白黒テレビ”という言葉がそれに当たる。登場したころのテレビは白黒だったが、その後カラーテレビが当たり前になり、カラーテレビこそが単に“テレビ”と呼ばれるようになると、かつて単に“テレビ”と呼ばれていたものは“白黒テレビ”と呼ばれるようになった。このように、時代が進んだことによって過去の事物に改めて与えられる名前が、レトロニムである。

 そう、新世代にとっては、ミクのいない世界こそ、問うべき異世界であり、それは“ミク以前の世界”とレトロニムで語られることになるかもしれない。

 そのとき同時に、かつての典型的なミクも、“歌姫だったころのミク”と表現されるようになるかもしれない。

 2007年8月31日の発表から16年。この8月31日に、初音ミクが16周年を迎える。「離婚した」とか言いながら、昨年よりもさらに清々しい気持ちでこう言えることを嬉しく思う。

 ハッピーバースデー。

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